2010年11月30日火曜日

モノホン。

この世に生まれてきて初めて体験したアメリカ本土の印象は、「人間も含めて、全てがズェ〜ンズェン(ゼンゼンのチカラ入ったバージョン)観光客に媚びてない」ってとこ。
いままで連れて行っていただいた「サイパン」「グアム」「ワイハ」なんてさ、みーんな観光客がらみで生活してるじゃん?(100パーセントではありません、あしからず)だけどロスに住んでる人たちは、本格的にアメリカで生活しているから(当たり前だけど)観光客なんて「またウザッテェのがゾロゾロいるよ、ったく…」くらいにしか思っていないオーラがボヨンボヨン出てるから、こっちが恐縮してなきゃならんってのが、強烈な印象をもったのですよ。
っでね、巡りメグりました、ロサァ〜ンゼルス。
「うわぁー、本物のHollywoodサイン!」、「キャー、チャイニーズシアターのマリリンの手形足ガタァ〜!」、「きてぇきてぇサンタぁモぉニカぁ~!(古っ!)」、「あぁビバリーヒルズぅ…ゴージャス!」、「ドヘェー、セブンイレブン!って日本にもあるし…」みたいな。
いちいち感動してたんですなぁ、これがまた。
いいのいいの、だって「アメェ〜リカ」すきなんだもーん、なんか文句あっか?
っで、食事。
雑巾みたいなステーキ食って、水みたいにうすーい、コクもヘッタクレもないビール飲んで…、だけどいいのいいの、だって「アメェ〜…リカ」だもん、「スキッ、チュッ」なんだもーんだ。
っと自分に言い聞かせながら、同じメニューを一緒にオーダーした仲間が一口食った瞬間から、みるみる渋く凍りついた表情に変化していくシーンを横目で見ながら、僕は幸福の絶頂で口を半開きにしながら夕食のひと時を過ごしたのでした。

「あぁー、俺、絶対アメリカに合ってる。なんで俺、ニッポン人なんだろ、…神様ったらなんて意地悪…」ぐらいの勘違いを物凄く起こしていて、「俺、死ぬまでに一回住んでやろ、だって人生一回こっきりなんだもーん!」みたいな思いが沸騰してきたんだけど、「だけど現実の社会はそんなヨコシマな出来心だけじゃ受け入れてはくれんばい」って、僕の両肩に天使と悪魔が「ボンッ!」って煙を出しながら登場したのを鮮明に覚えてます。

2010年11月23日火曜日

本土上陸。

さて、海外デビューを飾らせていただいたグアム旅行の後、毎年一回づつ社員旅行にいかせてもらって、「サイパン」の次に「ワイハ」といきなりグレードアップした後、さぁー!っと思ったら、また「グアム」「サイパン」ときて、26歳となった90年、ついに、っつ、ついにぃ〜念願のアメリカ本土、ロサンゼルス旅行となったんでありまーす!

前の晩なんか「時差ぼけになるからとにかく寝ちゃぁいけんばい」っていう大義名分で「自由ヶ丘」にあったキャバクラ行ってそこのネーチャンつれてカラオケ屋行って、…っでイロイロあって…、とにかく全く寝てない状態で成田空港から飛び立ったのでした。

前夜は完徹(完全徹夜ね)だったおかげで、興奮しているにもかかわらず、機内でビールを飲んだと思ったら即効で爆睡。
っで、貫禄充分のスッチーに食事で起こされて「ビーフorチキン?」(アメリカの航空会社だったからね)とか聞かれて、たのんだ「ビーフ」を口にカッ込んだらまた即効で爆睡。

っで、アッという間の11時間、我が機が本土上空に差し掛かると、丁度ナイスなタイミングで目を覚ました僕が窓越しにみたアメリカは「あっけぇなぁ〜…」、これ、ようするに赤土が印象的だったもんで、『記念すべきアメリカ本土の第一印象』が「赤い」だったんですねぇ。

すると今度は一面に広がる街並みが見えてきて、ハイパー状態の僕はもう機内の窓から写真撮りまくり。
「きたよ〜きました、ロサンゼルスぅ〜」って。
迫ってくる街並みを見下ろしていると、いきなり着陸。
平べったかったんですねぇ〜、ロスって、実は。
高い建物がほとんどナイ。ホノルルより平面。何じゃこの土地の使い方ぁ!
「う〜ん、そこが、ア.メ.リ.カ.…うふっ」
なんでも許せるんですよ、いいの、アメリカが好きなんだから。なに?文句ある?
そしてそして、ついに本土の地に足を下ろした瞬間、「これは私にとってほんの小さな一歩だが…あとなんだっけ?」みたいな、感動なのか感想文を書こうとしていたのかわかんない程、感動していたのですよ、これが。
LAXの空港敷地内に聳え立つ、アトミックなデザインのミッドセンチュリーモダァ〜ン丸出しのレストラン(実はわたくし、あれ管制塔だと思っていたのよ)はテレビで観てた通りだし、
「Welcome to LosAngeles」って英語で書いてあるし、まー、たまげましたわ、まったく。
っで、イミグレーション(入国管理窓口)へ。
なが〜い列を並んで、挙句に僕の番が来たというのに、昼飯なんだか、トイレなんだか、とにかく受付窓口の半分くらいが急に閉まっちゃって、気絶しそうなくらい追加時間で待たされちゃって、やっと番が来たと思ったら、なんとも流暢すぎる、まことにネイティブなアクセントのイングリッシュでスピークされたもんだから、待たされ過ぎで意識モウロウとなっていた僕は「パードン?」って苦しまぎれに聞き返してみたはいいものの、大きな声で言い返してしていただところで、決して聞こえてないんじゃなくて、意味がわかっていないんだから、「パードン?」もねぇべよ…って感じなんですけど、とにかくその場は「パードン?」を使ってしまったために、知ったかぶりな態度でカマすしかなくなってしまって、「イェァ、イェァ、オー!イェァ!」みたいなスットコドッコイな答えをしたと記憶してます。ハイ。

そんなこんなで結局2Kgぐらい体重が減り(これダイエットにいいかも)ゲッソリとした状態でイミグレをパスすると、プーッと一服。
するとですねぇ、なんて言うんでしょ、旨くないんですねぇ、これが。
「なぜなぜ?なぜなの?」「それはね、空気が乾燥してるからなのだよ、スギサク」みたいな。
何だかわかんない展開でも僕は気にしていないんだけど、とにかく旨くない。
じゃ、やぁーめた。
っつーことで、なんとロサンゼルスはタバコが旨くなくて、滞在中は酒飲んだ後とユニバーサルスタジオのアトラクション後、シックスフラッグスの絶叫マシンに乗った後の一服以外は吸わんでよかったんですねー、なんと。

その辺からジワジワと、「あー、俺、アメリカでタバコ吸わんでも生きていけるだわぁ、いいかもしんない」って、都合のいい解釈で「俺、もしかしてアメリカあってるかも…」みたいな、自分にとって偉大な、あぁ〜偉大な一歩となったのでぇ〜す。

2010年11月21日日曜日

復活の日。

本当は2年で故郷サッポロに引き上げるつもりだった東京にオーバーステイさせたその就職先自動車ディーラーの社員旅行で「グアム島」に連れて行ってもらった21歳、そーなんですよ奥さん!、上京してすぐ、あまりにもカルチャーギャップがありすぎる東京の印象から、今日まで忘れ去られていた「アメリカアメリカ熱」が、また沸々と沸きあがってきたのですよぅ!うぅ…。

底抜けに青い空、テレビでよく目にした紫外線の強さからくる空気感、走ってる車は右側車線、出会うヒト皆アメリカ人、っと思ったらフィリピン人、看板はみな英語、っと思ったら日本語も…。まぁ、とにかく海外、しかもアメリカ領域なのですわー!
で、安いパック旅行特有の「行かなくてもいい、不愉快この上ない免税店まわり」をさせられた後、行きましたよ、さっそく、「スーパーマーケット」に。
スーパーのドアを開けた途端、おそろしく涼しい店内に「プ〜ン」と匂うエアコン臭…あ〜、たまらない、ここ、ほんとにアメリカなんだよぉ〜オッカチャン!みたいな感動なのか、はたまた単純に寒いだけなのか、すでに僕は鳥肌状態。

鳥肌立てながら店内奥へと進んでいくと、当たり前なんだけど、日常品のパッケージがどれもこれもみーんな英語!しかも派手な色使いでカッコイイものばっか!
気が付くと、いつの間にか僕が押してる大きなショッピングカートは「胃薬」やら「洗剤」やら「ピーナッツ」やら「コーンフレーク」やら「歯磨き」やら、しまいには「お米」やらの日用品でイッパイ。
これ絶対全部持って帰れないでショ?しかも仮に持って帰れたとしても、部屋に置くスペースなんか、ぜんぜん無いでショ?って頭ん中で自分を追い込んでしまうような量だったので、レジの前で「アレいらん」「コレいらん」って抜粋したものだけを自分のお土産として買ってきたのだけど、それでも凄い量になってしまっていたんですよねぇ、これがまた。

っで、結構デカイはずの僕のボストンバックには入りきらず、結局「胃薬」やら「コーンフレーク」や「米」たちを日本へわざわざ持って帰るためのスーツケースまでゲットする羽目になったんだけど、そこまでしても魅力的なパッケージには勝てなかった自分に、「カワイイ奴やのぉ〜、オレ」と愛しく思ったと同時に、「やっぱアメリカだわな、ウンウン」との想いがゾンビのように復活してきたお祝いに、帰りの飛行機出発時間まで余裕があったので、アメリカ心満載なはずの僕は「ひやむぎ」をつい気を許して食ってしまい、その水に当たって、日本に戻る飛行時間はトイレに入りっぱなし、成田空港に着いたら着いたで税関でバッグの中を開けられ、スーパーで買った『日用品』の凄さに呆れた口調で罵られたのでした…。

2010年11月18日木曜日

テクノポリス。

こうして、なんともいえない独創的な発想をもったブティックから単純に物凄い影響を受け、もちろん刈り上げリーゼントにホワイトな革シューズを履きこなし、なんともいえない独創的なアメリカンカルチャーを勝手に妄想しながら育っていった僕は、やがて妄想ではなく「本当のアメリカっつーものとはいかなるものかーっ?」を探し始めると同時に、同じ脳ミソを持ってると思しき人間たちをカキ集めてグループつくって「ブルースブラザース」とか「アニマルハウス」とか「ポーキーズ」なんかを映画館に観に行って「みんなでアメリカアメリカした生活をしてカッコつけよーぜ!」と、箸も使わず、ホッケも食わず、だけどザンギ(北海道独自の呼び方なんだけど、結局は鳥のから揚げ)だけは許してあげて、音楽なんかも決して歌謡曲なんか聴かないし鼻歌なんか歌ったもんなら即八つ裂きっていう掟までつくってガンバリ抜いた高校生活を送った後、2年間の計画で東京へと移住したのでした。

東京シティは、上京していきなり渋谷を拠点とする友人達(渋カジとかチーマーの前身ね)ができてしまったおかげで、当時19歳の僕はまずアメリカレベル以前の問題で非常にヒジョーに、もろくも「上京してきたばかりのカッペが被るカルチャーショック」っつーのを真正面から受けてしまって、「トーキョーって都会なんだわなぁ、やっぱ」ってかなり自暴自棄に陥らせてくれたトコで、とにかくモノがなんでもあって、当然ながら見るヒト見るヒト都会的で垢抜けてて芸能人みたいで外人も歩いてて「狸小路」なんかなくて「俺、とんでもないトコ来ちゃったなぁー…」って、もうアメリカとか語ってる余裕どころか脳ミソにそんな隙間すらも無くなっちゃった状態で呆気にとられてる隙になぜか当時アルバイトしていた自動車ディーラーにそのまんま就職しちゃって、2年の東京生活のはずが結局延長料金を払うことなく滞在延期となったのでぇす。

2010年11月16日火曜日

出会い。

皆さん、今までの人生で何かに憧れたことって一度はお持ちでしょ?
僕の場合、その「憧れ」っていうのが、漠然と「アメリカ」だったんですねぇ。
幼少の時代からテレビ番組なんかで慣れ親み、雑誌「ポパイ」なんかでライフスタイルみたいなもんを紹介してもらっていたこともあるんでしょうが、それを駄目押し、問答無用、決定的にしたのが、「フィフティーズファッション」。

そうなんです、僕くらいの年代(1960年代生まれ)の方でしたらご存知のはず、空前の「竹の子族」「ロックンローラー族」「ツッパリなめ猫アラレちゃん」大ブーム時代。
そのブームが絶頂期となるチョット前の1978年、札幌に暮らす当時14歳の僕は、やたらデカイ体格に角刈りヘアーで「JUN」とか「DOMON」なんぞが胸に大きくプリントしてあるTシャツの袖を肩までロールアップさせて、思いっきしブランド宣伝をしながらイキガッておりました、エヘン。
中でも黒地にシルバーやゴールドのブランド名がプリントされたものは、「よそ行き用」として大切に扱われ、ロールアップした袖も無造作ではなく、キチンと丁寧に折り上げられ、決してシワなんぞついてはいけないアイテムだったくらいなのでした。

だがしかーし、当時ツルんでいた、現在はもうこの世に存在していないヨゴレ友人に連れて行かれた『クリーム・ソーダ』っていう、アメリカンでフィフティーズなブティックが相当にぶっ飛んでいて、一撃で僕のハートを射抜いてしまったのですねぇー、これが。
なんせ札幌中心街から外れたとこに、いきなりスカイブルー(カッコイイ言い方だ)にペンキで塗ったくられた一戸建ての四角い建物が登場して、おまけにアナタ、ドアを開けると店内は一面ピンクなんっすよ!男もんの店じゃないみたいなんだけど、ピンクの壁に古着の革ジャンがズラァーっと吊るしてあって、なんともアメリカちっくな(本物見たことなかったからそう思っただけだけど)手書きのデッカイ看板がモディファイされて、床なんか白と黒の市松模様のピータイルが敷き詰められてるし、フェニックスの観葉植物があちこちにあって天井には扇風機が回ってるし物凄くアメリカアメリカしてて、おまけに駄目押しでスタッフみんなテッカテカのリーゼント、しかも襟足が刈り上がっているではありませんかぁ!「リーゼント=(イコール)不良=(イコール)アウトロー=(イコール)決して刈り上げたりはしませんぜぃ。」という定義なんじゃなかったのぉ?!
その上、テロンとした淡い色彩のアロハにホワイトなパンツ、ホワイトな革シューズで涼しげにキメてる人なんかもいて、まったくオシャレで困ってしまう店の真ん中で、角刈り頭にブランド名宣伝しまくりブラックTシャツの袖を丁寧に肩まで織り上げ、ボンタンジーンズ(エドウィン製)にカカトをつぶしたエナメルシューズで暑苦しくキメた、まったくダサくて困ってしまう僕は物凄くショックを受けて呆然とした後ハッと我に返ってあまりにも軸がズレている自分のスタイルから恥ずかしさゆえ来店2秒で即効逃げ帰ったのでした。

その一週間後、今度はそのブティックに負けてはならぬと、真っ白Tシャツ(BVD製)に「トロイブロス社」製の紺色スィングトップ(パイプのワンポイント刺繍つき)の襟を直角に立て、ボンタンジーンズ(エドウィン製)に、なぜか当時駆け出し中のNIKE社製ハイカットバッシューという、今考えるとまったくトホホなスタイルで、鼻息も荒くリベンジを挑んだのでした。

そしていよいよスカイブルーの一戸建て店舗につき、燃えたぎる気持ちを抑えながら「ギィー」っとドアを開けると、途端にピンクの店内から「あー、いらっしゃい、どーもこの間だはぁー!」っと、素敵なスタッフのお兄さんからとってもとっても優しく親切な対応をうけて、カッペまるだしのイキがり小僧だった僕の心を一瞬にして素直に開かせてくれたのです。

だがしかーししかーし、実はこれ、「テ」だったんっすよねぇー。
イイヒトになりきったスタッフが、まだチンチンの毛も生え揃っていないニキビズラ角刈り青二才をその気にさせて買わせるにいいだけ商品を買わせちゃおうという販売促進手段だったんですなぁー、これが。

そんな腹とは爪の先にも思ってやしない小僧の僕は買いましたよ、思いっきし。
そのブティック、温泉ホテルみたいなもんで、洋服だけじゃなくそこ一軒で全てのアイテムがまかなっちゃう。
クシから財布、ポマードに指輪、バスタオルや枕カバーまで売っちゃってるから、このブティックの商品だけで一生を送れるといっても過言ではないんだぞ、そこのお方。
そのブティックのスタイルそのまんまが僕にとって「アメリカ」だったわけで、ある意味僕の頭の中に浮かぶ「アメリカ」は、そのブティックそのまんまとなっていたのでした